ユダヤ教の過ぎ越しの祭りとキリスト教のイースターの密な関係
イスラエルに過ぎ越しの祭りと呼ばれる祝日がやってきました。
旧約聖書の出エジプト記に描かれている、モーセが奴隷状態だったユダヤ人たちを連れてエジプトから出たことにちなんだ祝日です。
写真参考:gettyimages
2018年は3月31日から4月7日まで続き、初日と最終日だけ交通機関がストップします。
大学は休みですが、スーパーや銀行などは開いています。
一般的なユダヤ人家庭ではこの時期に大掃除をする人が多いとのこと。家族旅行に出る人も多く、車で出かけるときは渋滞覚悟。
祝日の間、ユダヤ教徒は小麦系の食べ物を食べてはいけないことになっており、その代わり酵母の入っていないクラッカー状のパンを食べます。
家からも禁止されている食べものをすべて出さなければいけず、燃やしたりして処分するか、ユダヤ教徒ではない人たちに渡されます。
私が住む寮にも処分しなければならないクッキーやスナック菓子などを大きな袋に詰めたユダヤ人が現れ、なんでももらってーと言ってきたのでポテトチップスやクッキーをありがたく頂戴しました。
さらにスーパーの棚からはパンが消え、パスタやスナック菓子などの棚は白い布で覆われます。
さてこの過ぎ越しの祭りですが、西洋の国で大々的に祝われるキリスト教の祝日イースターと密接な関係があります。
その歴史をのぞくとユダヤ教とキリスト教が兄弟であることがわかります。
以下はちょこっとだけそのお話。
イエスの死後、過ぎ越しの祭りを祝っていたキリスト教徒たち
イエスもパウロもユダヤ人だったように、イエスを信じた初期のキリスト教には、たくさんユダヤ人がいました。彼らはイエスの死後も、ほかのユダヤ教徒たちと同じように毎年過ぎ越しの祭りを祝っていました。
しかし、彼らはイエスを信じているという点で他のユダヤ教徒たちとは違っている存在。過ぎ越しの祭りも自分たち流に祝おうとします。
そこで、彼らはイエスが十字架上で苦しんだことを記憶に留めておこうと、過ぎ越しの祭りを祝うときイエスの張り付けという出来事も一緒に思い出すようになります。
これがイースターのはじまりのはじまり。過ぎ越しの祭りのアレンジという感じだったのです。
イースターという名前が現れる
2世紀ごろになり、はじめて「イースター」という名前が現れます。これはキリスト教徒がユダヤ教から離れて独自の道を歩み始めたことを示唆しています。
この頃までにローマ帝国においてユダヤ人以外のキリスト教徒の数が急増したこと、ユダヤ教が反乱を起こしローマ帝国のブラックリスト入りしたことが「キリスト教はユダヤ教とは別」という意識を強めたようです。
しかしまだ過ぎ越しの祭りと同じ日にイースターは祝われていました。
2世紀の終わりになってやっと、ローマ教会が公式に過ぎ越しの祭りとは別の日にイースターの開始日を設定しよう、ということになります。その別の日とは、イエスの復活した日曜日。
しかし東方のキリスト教会はそれに反対します。
それは祝日のタイミングに理由がありました。
イエスの復活の日にイースターを祝うと、過ぎ越しの祭りのあとに祝うことになります。
ユダヤ教徒は祝日の間、酵母の入っていないパンを大量に用意しますが、この時代には祝日がおわるとみんなが家から外にぽい捨てしており、町のカオス具合はハンパなかったようです。
そのあとキリスト教徒は残飯だらけの通りを見ながらイースターを祝わなければいけない。
これはいやだ、いままでどおりの日、つまり過ぎ越しの祭りと同じ日がいいという声が特に東方の教会で強かったのです。
ということでまだイースターの日付けは満場一致で賛成、とはいきませんでした。
ユダヤ人嫌いの波がイースターの確立へつながる
しかし3世紀になるとさらなる転機がおとずれます。
この時期キリスト教の中で、「神殺しのユダヤ人」のコンセプトが定着してきます。キリストの死はユダヤ教徒全体に責任がある、という考え方です。
もうユダヤ教を土台にするのはまっぴらごめん。キリスト教はユダヤ教と切れるべきだ。そういう風潮が強くなり、イースターをどの期間に祝うかのルールが決められていきます。
そして4世紀。二ケア公会議で、東であろうと西であろうと、すべての教会が同じ日にイースターを祝うという決まりがつくられ、みんなそれにオーケーします。
こうしてイースターはユダヤ教の祝日とは関係なしに、イエス・キリストの祝日だとされました。
イースターはキリスト教が独立していく過程で確立されていったのですね。
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