アラブ音楽のオールディーズコンサートに熱狂するイスラエル人
エルサレムにできる新しい鉄道駅の名前がトランプ駅になるというニュースが駆け巡った日の翌日、エルサレムの中心地にあるジェラルド・ベハール・センターというコンサート会場に行ってきました。
フィルカット・エル・ヌールという名前のオーケストラのコンサートで、テーマは1950年代から60年代のアラブ映画の曲を演奏するというもの。
日本人の私には何のことかわからないまま行きましたが、つまりはオールディーズコンサートで、日本でいう「昭和の歌謡曲コンサート」みたいなものです。
60代くらいの方たちが昔を懐かしんで「なごり雪」とか「結婚しようよ」とか聞きに行く感じです。
そこで目の当たりにした光景は、アラビア語の歌をノリノリで一緒に歌うイスラエル人たち。
歌手が四人登場しましたが、歌は全曲アラビア語。歌手の一人はキッパと言われるユダヤ人特有の帽子をかぶっている男性でした。
最後の曲では盛り上がりが最高潮に達し、通路に出ていって踊りだす人も。
さて、ヘブライ語を話すはずのイスラエル人なのにアラビア語の曲? と一瞬はてなマークが浮かびますが、なぜこのような光景が見られるのでしょうか。
ミズラヒと呼ばれる人たち
それはイスラエルに存在するミズラヒといわれる人たちにカギがあります。なぜならそこにいてアラビア語で一緒に歌っているイスラエル人がこのグループに属するからです。
ミズラヒとは「東」という意味。ヨーロッパから来たユダヤ人に対してアラブ諸国やイラン、北アフリカ、アジアなどから来たユダヤ人のことを指します。
1948年イスラエルが国となることを宣言してから、アラブ諸国と戦争状態になります。それ以前に多くのイスラム諸国には一定のユダヤ人たちが地元の生活に溶け込んで暮らしていました。
イラク、シリア、イエメン、エジプト、モロッコなどに住んでいたユダヤ人たちはそこでアラビア語を母語として暮らしていました。しかしイスラエルが隣国と戦争状態になると、彼らの意志とは関係なくユダヤ人つながりということで一気に立場が悪くなり一部では暴動に発展します。
長く暮らしてきた国に居づらくなったことに加え、イスラエルが移民を欲しがっていることもあり、彼らは建国後、続々とイスラエルにやってきます。
しかしそこで待っていたのは予想もしない現実でした。
当時イスラエルで権力を握っていたのはアシュケナジと言われるヨーロッパ系ユダヤ人たち。ヘブライ語やヨーロッパの言語をしゃべり、ダイアスポラ(離散)の歴史から自分たちを切り離し、新しく革命的に国を作りたいと熱望している人たちでした。
一方ミズラヒたちにとってユダヤ教の伝統はとても大事。過去とのつながりは最も尊ぶべきものでした。彼らの肌は浅黒く、文化もヨーロッパより圧倒的にアラブ人の文化に近かった。そんな彼らの文化をアシュケナジ系ユダヤ人は「遅れている」とみなします。
そんな彼らはイスラエルに来てもなお昔のように家でアラビア語を話し、アラビア語の映画を見て、その中の歌を生活の中で口ずさんでいました。
つまりアラビア語の歌が彼らのオールディーズになるのはごく自然なことだったのです。
「ハビビってきれいな響きでしょ」
コンサートの歌の中には幾度となく「ハビビ」(アラビア語で「わたしの愛しい人」)という言葉が出てきました。
コンサートが終わったあと、目の前にいるミズラヒ系ユダヤ人男性が「ハビビってきれいな響きでしょ。ヘブライ語より全然きれいな言葉なんだ」と言ってきました。それくらい、彼らの青春はアラビア語とくっついているのです。
ヨーロッパ系アシュケナジのユダヤ人にとって長らくミズラヒの音楽はアラブ色が強すぎて、到底受け入れられるものではありませんでした。
同時に社会的にもミズラヒは長らくアシュケナジと比べて不利な立場にたたされてきたのですが、現政党のリクード党が1977年に勝利してから、ミズラヒの社会進出も進んでいきます。
リクード党勝利の背景にはこのミズラヒたちの不満を上手く汲んだため、票が集まったのが大きな一因でした。
そして皮肉にも、ミズラヒはアシュケナジよりも右派とされていて、アラブ人やパレスチナ人への対応に厳しい態度をとっています。それは彼らが住んでいたアラビア語圏の場所を追われた体験が大きいと言われています。
フィルカット・エル・ヌール・オーケストラは宗教や民族を超えて結成されたオーケストラとされています。ユダヤ人、イスラム教徒、キリスト教徒、ドゥルーズ教徒、アラブ人とイスラエル人のメンバーがひとつのオーケストラで演奏しています。
コンサート中に演者がパレスチナとイスラエルの和平のことを口にする場面もありましたが、おそらく観客にとっては自分の懐かしい記憶にどっぷりと浸かっていられる時間だったのでしょう。
イスラエル社会の複雑な一面が垣間見えた夜でした。