音楽から見るイスラエル2 ー 周縁から流れ込む音楽
前回の記事「音楽から見るイスラエル1」で登場したイスラエル・オールディーズの作り手たちは、主にアシュケナジーと呼ばれるヨーロッパ系ユダヤ人たちでした。
今回は、アシュケナジー以外のユダヤ人のイスラエルの音楽への影響を見ていきます。この影響の強まりは、SLIの人気が落ちはじめ、イスラエル人が集団から個へ移行していくと時期と重なっています。
ダイアスポラの音楽が蘇る
タンバリンとアコーディオンを使った、エキゾチックで懐かしい感じの曲。2000年代以降に復興した、ピユットという宗教的な詩に、エティ・アンカリというアーティストが曲をつけたもの。
この曲の詩は、11世紀スペイン時代のユダヤ人で最も偉大な詩人でもあり哲学者であったイェフダ・ハレヴィによって書かれました。「友よ、私の胸にいたときのことを忘れてしまったの?」というフレーズで始まります。
エティ・アンカリは2009年に発売した『イェフダ・ハレヴィの歌』というタイトルで、ハレヴィの詩に曲をつけるというコンセプトで一つのアルバムを完成させました。
イェフダ・ハレヴィの銅像
このピユットというジャンルは、パレスチナの地以外で暮らしていた離散ユダヤ人(ダイアスポラと言います)の金字塔ともいえる文化的遺産です。ムスリムに支配されていた中世のスペインで暮らしていたユダヤ人は、この時期にダイアスポラのユダヤ人の苦しみ、恋愛、友情、パレスチナの地への憧憬などをテーマに詩をたくさん作ります。
その後スペインを追い出されたユダヤ人たちは、新たな地(北アフリカや中東など)でこの詩に曲をつけだし、それぞれのコミュニティーで歌い継いで来ました。
そしてイスラエル建国後、彼らはイスラエルにやってきますが、そもそもイスラエルを建国したシオニストと呼ばれるヨーロッパ系ユダヤ人のリーダーたちは、ダイアスポラの生き方そのものに対して否定的でした。なので、ピユット含むダイアスポラ文化も必然的に二次的な扱いを受けます。
しかし、ヨーロッパ系ユダヤ人の独占的な影響力が弱まり出すと、このピユットも2000年を過ぎて注目されるようになってきます。
イエメン人歌手という特別な存在
1950年代に、北アフリカやアラブ諸国に住んでいたユダヤ人たちは、イスラエル建国をきっかけに、迫害を受けるなど風当たりが強くなり、イスラエルへ渡ります。
彼らはアラビア語をしゃべり、アラブ文化で生きてきたので、ヨーロッパ系イスラエル人とはだいぶ違う文化を持っていました。彼らを総称してミズラヒ(ヘブライ語で『東』の意味)と呼ばれ、彼らの音楽は「ミズラヒ音楽」と呼ばれます。最初に紹介したピユットを歌い継いで来た人たちもこのミズラヒと呼ばれる人たちです。
そのミズラヒの中でも、イエメンのユダヤ人はちょっと特別視されていました。
というのも、イエメンのユダヤ人ははるか昔から孤立したコミュニティーとして、ずっとイエメンに住み続けていた。地理的にも古代のユダヤ人の国があったパレスチナ地方の近くで生きてきたので、彼らのユダヤ教は外部の影響から守られ、もっとも純粋なユダヤ教のかたちを保持してきた、と考えられているためです。
そんなこともあって、イエメン人の女性歌手は神聖視されて重宝されました。ヨーロッパ系の作曲家がイエメン人歌手のために曲を書くことが多かったのです。こちらはブラハ・ツェフィラというイエメン系女性歌手による歌唱↓
ブラハ・ツェフィラ
最近でいうとイエメン・ブルースというバンドがあり、日本にも来日したことがあります。アラビア語、ヘブライ語、フランス語で歌うイエメン系の男性ヴォーカル、ラビット・カハラーニの歌のうまさとカリスマ性が光り、一度ライブを聴いてみてほしいです。
ラビット・カハラーニ
二つの文化をつなぐギリシャ音楽
イエメン人の歌手がイスラエル社会で光彩を放っていたように、ギリシャ音楽もイスラエルの音楽シーンで特別な地位を占めていました。
1950年代前半からギリシャ音楽の要素がイスラエルの音楽に入ってきて、1960年代にその人気のピークを迎えます。
なぜそんなに人気が出たのか。
それはギリシャの文化が、イスラエルのユダヤ人間で分断されていたヨーロッパ系文化と中東文化の中間にあると感じられたからです。ヨーロッパ系のユダヤ人にとって、ミズラヒの音楽はあまりにもアラブ色が強かったのですが、ギリシャ音楽は異国風に聞こえても、まだヨーロッパ寄りな感じがして馴染みやすかった。
ギリシャ音楽の影響を色濃く受けた1952年の『ヤッフォ』という曲があります。ヤッフォとは、今も観光地として知られるテル・アビブの南に位置する港町で、アラブ文化が色濃く残る地です。
当時ヤッフォは古いムスリム文化と新しい移民の文化が交わるところで、異国情緒が溢れ、世界に開かれた雰囲気に溢れていました。歌詞には「ポーランド語の新聞、ルーマニアの雑誌、ギリシャ人の売り子、ヤッフォ」とあって、当時の雰囲気を伝えています。
パレスチナン・ヒップホップという反逆児
パレスチナン・ヒップホップバンドと言われるDAMの2008年の『テロリストは誰だ?』という曲。彼らはイスラエルで生まれ育ったパレスチナ人です(イスラエルではイスラエリ・アラブと呼ばれます)。
ヘブライ語とアラビア語がどちらも流暢なので、イスラエル・ユダヤ人の聴衆も獲得しています。
恵まれない貧しい労働者階級から来ている彼らの歌には、イスラエル・ユダヤ人種差別の問題、経済的および教育的機会の欠如、コミュニティーで蔓延する薬物使用についてのテーマが盛り込まれています。
決してメインストリームにならなくても、こういうグループが登場してくるという事実が、イスラエル社会で以前より多様な表現が可能になっているという証拠でもあります。
テル・アビブの周縁から出てきたラップグループSystem Ali
System Aliは、テル・アビブの南にあるアジャミという貧しい地域を拠点に活動するラップグループ。アコーディオンやヴァイオリンなどの楽器も合わせて演奏されます。
アジャミは、かつて「ゲットー」と呼ばれたアラブ系住民が住む地域でした。 2011年、アジャミ地域は急速な開発に見舞われます。いわゆるジェントリフィケーションという、地元住民の生活を無視した、金持ち(ここではユダヤ人)向けの開発でした。
彼らはそんな民族差別の絡んだ弱者と強者を分ける社会システムに真っ向から反抗します。
このグループの面白いところは、一人一人の民族性が違うこと。アシュケナジー系、ミズラヒ系、キリスト教徒のアラブ系、米国生まれのイスラエル人。
なので一人一人が抱える社会問題もばらばら。あるメンバーは軍の徴兵制に反抗し、あるものはアラブのアイデンティティーを訴える。決してひとつの社会問題に集約しようとはしません。
各メンバーは母国語でラップするので、ヘブライ語、アラビア語、ロシア語、英語が混じります。彼らの存在そのものが、イスラエルの複雑な社会を反映していると言っていいでしょう。
以上、イスラエルがよくわかる音楽として挙げてみました。
イスラエルの音楽はいろいろな音楽の要素を取り入れ、歴史や社会状況を反映させながら変化し続けています。