イスラエルいろいろ

イスラエルってどんなところ? ふだんだれがなにして暮らしてる? そんなギモンを掘り下げてみました。ユダヤ人の歴史・文化にも踏み込んでいきます。

ユーロビジョンコンテスト2018優勝! チキンダンスで魅了。イスラエル代表Netta(ネタ)

ポルトガルで開催されたユーロビジョンコンテスト2018。

 

イスラエル代表のシンセを操る若干25才のNetta(ネタ)が優勝しました。

 

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日本人にはなじみがないですが、1950年代から毎年開催されているヨーロッパ国別対抗歌合戦であるユーロビジョンコンテストはヨーロッパで知らない人はいない有名な大会です。

 

過去にはスウェーデンのABBAやセリーヌ・ディオン(なぜかスイス代表で優勝)も出場している大会。

 

たった一曲を武器に戦っていきます。

 

Nettaってだれ?

本名はネタ・バルジライ(נטע ברזילי)。テルアビブ育ちで有名な音楽学校を卒業しています。

 

幼少期に親の都合で四年間ナイジェリアにいたことがあり、その間に乳母がアフリカン・リズムの子守歌を歌ってくれていたそう。

 

パフォーマンスでは金の招き猫をバックにカラフルな着物を着て「Toy」を歌いました(というわけで日本テイスト満載)。

 

「Toy」はワンフレーズのみヘブライ語(”אני לא בובה”= 「わたしは人形じゃない」)であとは英語。

 

冒頭、意味不明な言葉をリズミカルに発すると、「見て、わたしはうつくしい生き物なの」とはじまり、

 

「わたしはあなたのオモチャじゃない。バカな男」と歌います。

 

曲はアップテンポでノリノリ。

 

スキャットっぽいフレーズがところどころに散らばり、くせになります。とくに「チキンダンス」と呼ばれる振り付けにあわせて「バカプカブーバカプカプー」と歌うところはツボ。

 

歌詞にはイスラエル人女優ガル・ガドットが主演したワンダーウーマンも出てきて、女の強さをテーマにしています。

 

ネタいわく、「この曲は#MeTooだと思う。だけど、全ての人を勇気づける曲でもあって、だれもがこの曲のなかに自分自身のことを見出せるはず」とのこと。

 

本人は容姿についていろいろ言われることがあり、結婚式に歌を披露するよう呼ばれたときはリハーサルで「もっと外見のいい歌手を連れてこれないのか」という声を聞いたといいます。

 

「目的を達成するために、わたしは十分にかわいくないとか、頭がよくないとか、やせていないとかずっと言われてきたわ」

 

「もう少しダイエットをして、黒い服を着るようにいつも言われてきた。そのほうがきれいに見えるし、アデルみたいに歌うようにってね」

 

しかし本人は「なんでみんなアンハッピーなことで忙しくしているのか」と言っています。

 

いろいろと裏話もありますが、見どころはノレる曲とネタのパフォーマンス。#MeToo的なことは置いといても楽しめる曲です。

 

アコースティックバージョンも別の機会に披露していましたが、声量、技術、音程がちゃんとしていて、ただの飛び道具的なパフォーマーでないことはわかります。

 

ファイナル直前のオッズでネタは2位でした。1位につけていたのはビヨンセやシャキーラ風の歌って踊れるキプロス代表の美女。

 

ちょっと「違う」自分を選んでくれてありがとう、とネタは言っています。

Netta - Toy - Israel - LIVE - Grand Final - Eurovision 2018 - YouTube

www.youtube.com

 

 

ニ日間連続でくる「記憶の日」と「建国記念日」

2018年の4月18日は戦没者を追悼する「記憶の日」、19日はイスラエル70周年の「建国記念日」でした。

 

イスラエルは戦没者を追悼する日が建国記念日の前日にくるというめずらしい国です。

 

ある日を境に戦没者を悼むしんみりモードから建国のお祝いモードに一気にスイッチが切り替わります。

 

今年の「記憶の日」は水曜日の夜から始まりました。この間、あらゆる公的な場での催しやエンターテインメントは禁止されています。

 

夜8時になるとイスラエル中に大きなサイレンの音が鳴り響き、エルサレムの旧市街の嘆きの壁の前で追悼式が始まります。

 

当日、嘆きの壁で行われる追悼式に行ってみました。

 

まず嘆きの壁に近づく前にセキュリティチェックを受けます(観光するときも同じ)。そこを抜けると人が沢山いて、大きなスクリーンが二か所に設置されていました。

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追悼式典の席には戦争で家族を失った人や、政府の要人などが座っています。ちなみに自爆テロの犠牲者などもこの「記憶の日」の追悼対象になります。

 

サイレンが鳴り響き、黙祷が続いたあと大統領がスピーチをし、声のいい歌手が歌を披露。

 

子どもたちやほかの人たちも真剣に聞いていました。

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次の朝になると午前11時に二回目のサイレンが鳴ります。何の日か知らない人はたて続けになるサイレンに「戦争がはじまったのか?」とあわてふためくそうなので、この間に旅行する人は知っておくといいかも。

 

「記憶の日」の二日目は同日の夜から建国記念日が始まるので、街はだんだんとお祭りの準備に入ります。夜の七時に街に出てみましたが開始時刻までまだ時間があり、「記憶の日」なので浮かれることもできず、街がしずかで不思議なムードにつつまれていました。

 

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そして夜、建国記念日が始まると一瞬でお祭りモードに切りかわります。

 

蓋が開くように街はお祭りムードになり、花火が上がって通りはパーティーピーポーで溢れ、イスラエルの国旗があちこちでたなびきます。

 

次の日になると公園ではイスラエル人がバーベキューをします。「建国記念日はバーベキュー」というのがお決まりらしく、場所取り合戦も日本のお花見ぐらい熾烈なんだとか。

 

この「記憶の日」から一日もブランクなしに建国記念日に入るカレンダーはかなり計画的。「犠牲があったから建国がある」というイスラエルの強いメッセージが込められています。

 

さらに、つい一週間前はホロコースト記念日の日。

 

ホロコースト記念日→記憶の日→建国記念日と一週間以内にたて続けにくる祝日に、まともに感情を入れているとついていけそうにないですが、イスラエル人もこの奇妙なスケジュールはモラル的にOKだそうで、「ホロコーストがあり、イスラエルのために戦った人たちがいて、その犠牲の上に建国がある」というストーリーラインを身を持って感じることを進んで受け入れています。

 

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ナタリー・ポートマン、イスラエルで行われる授賞式を辞退

映画『ブラックスワン』で狂気のバレリーナを演じ、幼いころに出演した『レオン』のマチルダ役で多くの人々の記憶に残っている女優ナタリー・ポートマン。

 

そんなナタリー・ポートマンが先日、イスラエルで行われるジェネーシス賞の授賞式を辞退すると発表しました。

 

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     写真参考元: getty images

 

ジェネーシス賞とはイスラエルにおける賞で、「各分野で世界的に活躍し、ユダヤ人のコミュニティーとユダヤ人の価値に貢献してきた人物に与えられる」ものです。

 

ナタリー・ポートマンとイスラエルの関係

 

ナタリー・ポートマンはイスラエル系アメリカ人として知られています。

 

1981年にイスラエル人の両親のもとにエルサレムで生まれ、父方の祖父は1938年にイスラエルに移住、その両親(つまりナタリーの曽祖父母)はアウシュビッツで亡くなっています。

 

彼女の両親はイスラエル人で、ナタリーが三才の時にアメリカに移住しています。

 

その後もイスラエルとユダヤ人のアイデンティティーをナタリーは大事にしているようで、ヘブライ大学で学んだり、流暢にヘブライ語を話している姿も動画で見られます。

 

そんなナタリー・ポートマンはイスラエル国内でも認知度バツグン。

 

イスラエルの国民的作家(日本でいう村上春樹のような)であるアモス・オズの自伝的著作『A Tale of Love and Darkness』(未邦訳)を映画化し監督も務めるほど。

 

そんな彼女がイスラエルの授賞式を辞退したというニュースは多くのイスラエルにとってショッキングなことでしょう。

 

ナタリーが賞を辞退すると決定したあと、辞退した理由について憶測が広まっています。主なものは、彼女が占領地に不当な行為を行っている イスラエルという国に懐疑的で、BDS運動(アメリカ発のイスラエル製品をボイコットしようという運動)にも賛同しているためだ、という報道がなされました。

 

ナタリー自身のメッセージ

 

その報道に対しナタリー・ポートマンは自身のインスタグラムでメッセージを投稿しています。

 

「ジェネーシス賞の授賞式の辞退というわたしの決断が、他の方々から誤解をされています。そのためわたし自身に説明させてください。わたしが授賞式に参加しないわけは、授賞式でスピーチをするベンジャミン・ネタニヤフ(注:イスラエルの首相)を支持すると受け取られたくないからです。同様にわたしはBDS運動に参加しておらず、運動を支持もしていません。世界中のイスラエル人やユダヤ人と同じように、(注:イスラエルという)国全体をボイコットすることなしに、イスラエルの指導者に対して批判的だということです。わたしはイスラエルの友人と家族、イスラエルの食、本、アート、映画、ダンスを大事にしています。イスラエルは70年前にホロコーストから逃げてきた人びとの避難場所としてつくられました。しかし今日の、(注:イスラエル政府による)残虐な行為による苦しんでいる人々への不当な扱いは率直に言ってわたしのユダヤ的価値観に見合わないものです。わたしはイスラエルのことを思っているので、暴力、腐敗、不平等、権力の不正な乱用には立ち向かわなければいけません。

 

わたし自身から直接発信した以外の言葉をどうか受け取らないでください。

 

またこの経験を踏まえて、イスラエルにあるたくさんのチャリティー機関を支持することを考えています。これから発表する予定ですので、他の方々も彼らが行っているすばらしい仕事をサポートするよう願います。」(以上、ナタリー・ポートマンの2018年4月21日付けインスタグラムより。カッコ内の注は筆者が加えたもの。)

  

以上からわかるのは、ナタリー・ポートマンが批判しているのはイスラエルの国そのものではなく、イスラエルの中心で政治的決定をしているネタニヤフ首相を中心とした権力者であるということがわかります。

 

そしてBDS運動には参加していないと明言しています。BDS運動に参加するというのは、イスラエルの存在そのものに懐疑的な行為ですがナタリー・ポートマンはその運動を支持をしてはいない、ということになります。

 

パレスチナやガザという言葉はメッセージの中に出てきていません。「今日の残虐な行為」というのがガザへのイスラエル軍の行為を指すのか、アフリカ系移民に対する政府の強制退去の措置なのかはわかりません。しかしそういった最近の一連の行為を彼女のメッセージから想起するのは自然なことでしょう。

 

ハリウッドスターの一人として長年活躍するナタリー・ポートマン。時に政治家以上に影響力がある彼女のイスラエルについての言動は、これからも注目を浴びそうです。

 

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ホロコースト記念日にイスラエルが込める意味

2018年4月12日は国が定めたホロコースト記念日でした。

イスラエルでは『ヨムハショア』(ヨム=日、ハショア=ホロコースト)と呼ばれます。

 

学校や仕事は普段通りにありますが、午前10時にすべてがストップ。

どこにいようとイスラエル中が黙祷します。

 

大学では10時前に授業をいったん中断し、近くの講堂に集まりました。

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      セレモニーが行われた講堂

 

みんなが集まるとサイレンが聞こえ、数分沈黙が続きます。

 

それが終わると祖父母にホロコースト体験者を持つ生徒が話しをしたり、留学生が各国の言語でそれぞれのホロコーストの話をしました。

 

ヘブライ語、英語、ドイツ語、フランス語、ポーランド語などで話が続いたあと、

悲しい旋律の音楽がピアノやバイオリンで奏でられます。 

 

最後にはイスラエル国家のハティクバ(『希望』という意味)をみんなで歌っておわり。

 

解散後はまた各自授業に戻っていくという風でした。

 

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    キャンパス内のホロコーストの展示

 

ホロコーストとは

 

ホロコーストとは第二次世界大戦で約600万人のユダヤ人犠牲者を出した虐殺のことを言います。

 

ヒトラー率いるナチスドイツは戦争中ユダヤ人を計画的に殺そうとし、強制収容所、ゲットー、ガス室を作って大量の犠牲者を出しました。

 

現代でも西洋社会におけるそのインパクトは絶大で、毎年必ずといっていいほどホロコーストに関する映画が発表されています。

 

もちろん、ユダヤ人に与えたインパクトは計り知れません。

 

長い間国を持たなかったユダヤ人にとって、安全な自分たちの国を持つこと(つまりイスラエルの建国)がホロコーストによって一気に現実的になったのです。

 

歓迎されなかったホロコースト生存者

 

しかしイスラエルでは建国直後、ホロコーストを生き延びたユダヤ人は偏見の目で見られます。

 

それはホロコーストがユダヤ人が国を持たず、各国に散り散りに生きてきて、いつも受け身の存在でいた弱さの象徴として捉えられていたためです。

 

その代表的なイメージが年をとっていて髭をのばし、本の読みすぎで身体が曲がっているユダヤ人。このステレオタイプなユダヤ人像をイスラエルのユダヤ人たちも内在化していたのです。

 

それに対し、イスラエルの建国の柱になった人たちは健康的で日に焼けていて農作業をしているマッチョな強い男というイメージを大事にしました。

 

ただえさえ大変な経験を生き延びた人たちは初期のイスラエルで肩身の狭い思いをし、自らホロコーストの体験を語ることも避けられたのです。

 

流れを変える二つの要因

 

しかしその後ホロコーストはイスラエルにとってもっとも大事な歴史的出来事になります。

 

理由のひとつは、1961年にはじまったエルサレムのアイヒマン裁判。

 

『凡庸な悪』と評されたアイヒマンというナチスの幹部にいた男がエルサレムで裁判をします。(のちに絞首刑)。

 

この世界が注目する裁判によりホロコーストで実際何があったのかがが明るみに出始め、イスラエルでも理解が広まりました。

 

さらに建国後から周辺国のアラブ諸国と戦争を始めたイスラエルにとって、ホロコーストという出来事がイスラエルという国を正当化する最強の武器だということもトップの人間にわかってきたためです。

 

ホロコースト記念日は「イスラエル流」

 

ホロコースト記念日はワルシャワゲットー蜂起の日に重ねています。

戦争中にゲットーに閉じ込められたユダヤ人レジスタンスたちがナチスドイツに対して起こした武装蜂起です。

 

この日に記念日を重ねたわけは「ユダヤ人でも抵抗した人たちがいた」という「離散した弱いユダヤ人」のイメージに対するアンチテーゼの意味が込められています。

 

そしてホロコースト記念日の一週間後にイスラエルの独立記念日がやってきます。それはホロコーストがあったからイスラエルがあるという流れを時系列でもって感じさせるようになっています。

 

ホロコーストはユダヤ人だけに起こったことではありません。共産主義者、障害者、同性愛者、ジプシーやエホバの証人の信者たちも殺されていきました。

 

その事実もよく踏まえた上で、イスラエルという国がホロコーストを通してどういう風に自分の国を位置づけているのかよくわかる記念日だと言っていいでしょう。

  

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   図書館に展示されるホロコースト関連の本

 

ユダヤ教の過ぎ越しの祭りとキリスト教のイースターの密な関係

イスラエルに過ぎ越しの祭りと呼ばれる祝日がやってきました。 

 

旧約聖書の出エジプト記に描かれている、モーセが奴隷状態だったユダヤ人たちを連れてエジプトから出たことにちなんだ祝日です。

 

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写真参考:gettyimages 

 

2018年は3月31日から4月7日まで続き、初日と最終日だけ交通機関がストップします。

 

大学は休みですが、スーパーや銀行などは開いています。

 

一般的なユダヤ人家庭ではこの時期に大掃除をする人が多いとのこと。家族旅行に出る人も多く、車で出かけるときは渋滞覚悟。

 

祝日の間、ユダヤ教徒は小麦系の食べ物を食べてはいけないことになっており、その代わり酵母の入っていないクラッカー状のパンを食べます。

 

家からも禁止されている食べものをすべて出さなければいけず、燃やしたりして処分するか、ユダヤ教徒ではない人たちに渡されます。

私が住む寮にも処分しなければならないクッキーやスナック菓子などを大きな袋に詰めたユダヤ人が現れ、なんでももらってーと言ってきたのでポテトチップスやクッキーをありがたく頂戴しました。

 

さらにスーパーの棚からはパンが消え、パスタやスナック菓子などの棚は白い布で覆われます。

 

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さてこの過ぎ越しの祭りですが、西洋の国で大々的に祝われるキリスト教の祝日イースターと密接な関係があります。

 

その歴史をのぞくとユダヤ教とキリスト教が兄弟であることがわかります。

 

以下はちょこっとだけそのお話。

 

イエスの死後、過ぎ越しの祭りを祝っていたキリスト教徒たち

 

イエスもパウロもユダヤ人だったように、イエスを信じた初期のキリスト教には、たくさんユダヤ人がいました。彼らはイエスの死後も、ほかのユダヤ教徒たちと同じように毎年過ぎ越しの祭りを祝っていました。

 

しかし、彼らはイエスを信じているという点で他のユダヤ教徒たちとは違っている存在。過ぎ越しの祭りも自分たち流に祝おうとします。

 

そこで、彼らはイエスが十字架上で苦しんだことを記憶に留めておこうと、過ぎ越しの祭りを祝うときイエスの張り付けという出来事も一緒に思い出すようになります。

 

これがイースターのはじまりのはじまり。過ぎ越しの祭りのアレンジという感じだったのです。

 

 

イースターという名前が現れる

 

2世紀ごろになり、はじめて「イースター」という名前が現れます。これはキリスト教徒がユダヤ教から離れて独自の道を歩み始めたことを示唆しています。  

 

この頃までにローマ帝国においてユダヤ人以外のキリスト教徒の数が急増したこと、ユダヤ教が反乱を起こしローマ帝国のブラックリスト入りしたことが「キリスト教はユダヤ教とは別」という意識を強めたようです。

 

しかしまだ過ぎ越しの祭りと同じ日にイースターは祝われていました。

 

2世紀の終わりになってやっと、ローマ教会が公式に過ぎ越しの祭りとは別の日にイースターの開始日を設定しよう、ということになります。その別の日とは、イエスの復活した日曜日。

 

 

しかし東方のキリスト教会はそれに反対します。

 

それは祝日のタイミングに理由がありました。

 

イエスの復活の日にイースターを祝うと、過ぎ越しの祭りのあとに祝うことになります。

 

ユダヤ教徒は祝日の間、酵母の入っていないパンを大量に用意しますが、この時代には祝日がおわるとみんなが家から外にぽい捨てしており、町のカオス具合はハンパなかったようです。

 

そのあとキリスト教徒は残飯だらけの通りを見ながらイースターを祝わなければいけない。

 

これはいやだ、いままでどおりの日、つまり過ぎ越しの祭りと同じ日がいいという声が特に東方の教会で強かったのです。

 

ということでまだイースターの日付けは満場一致で賛成、とはいきませんでした。

 

ユダヤ人嫌いの波がイースターの確立へつながる

 

 しかし3世紀になるとさらなる転機がおとずれます。

 

この時期キリスト教の中で、「神殺しのユダヤ人」のコンセプトが定着してきます。キリストの死はユダヤ教徒全体に責任がある、という考え方です。

 

もうユダヤ教を土台にするのはまっぴらごめん。キリスト教はユダヤ教と切れるべきだ。そういう風潮が強くなり、イースターをどの期間に祝うかのルールが決められていきます。

 

そして4世紀。二ケア公会議で、東であろうと西であろうと、すべての教会が同じ日にイースターを祝うという決まりがつくられ、みんなそれにオーケーします。

 

こうしてイースターはユダヤ教の祝日とは関係なしに、イエス・キリストの祝日だとされました。

 

イースターはキリスト教が独立していく過程で確立されていったのですね。

 

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 写真参考:gettyimages 

 

やっぱりエルサレム旧市街が好き。

エルサレム旧市街。

 

そこはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地がぎゅっとつまったところ。

世界を見わたしても、そんな場所は他にありません。

 

真ん中には堂々とイスラム教の岩のドームが見え、その手前にはユダヤ教の嘆きの壁があり、イエスの足跡をたどるためにここを目指してくる人は後を絶ちません。

 

そんな旧市街は四つの地域から成り立っています。

 

ユダヤ教地区

旧市街は周りを城壁でぐるりと囲まれていて、いくつか門があります。

観光客はまずヤッフォ門という門から入るのが定番となっています。

 

 

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ヤッフォ門を入ってまっすぐ行くと、両側にお土産屋さんが並んでいます。

ところどころに標識があるのでそこに「Western Wall」と書いてあるのを見ながら、右に曲がり、しばらく行くと嘆きの壁が見えてきます。

 

朝早く行くとユダヤ人がたくさん嘆きの壁を目指して歩いているので、それについていくという手もあり。

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嘆きの壁の手前にはセキュリティチェックをするゲートがあります。

 

そこを抜けると、広々とした空間の奥に嘆きの壁が見えます。

 

お祈りの場所は男女に分けられているのでそれぞれの場所に行きましょう。

 

こちらの写真は女性側。

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女性側の方から男性側を見ることのできる台があります。のぼってのぞいてみましょう。

 

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かわいらしい時計を発見。

 

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ムスリム地区

 

ムスリム地区の目玉はなんといっても岩のドーム。

 

観光客が建物の中に入ることはできませんが、嘆きの壁の近くから黄金に輝くドームが見えます。これを見ずにエルサレムに来たとは言えません。

 

 

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ムスリム地区あたりにはお土産屋さんも豊富。

 

いいものを見つけたら必ずいい値で買わず、値段交渉をしましょう。

 

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ヴィアドロローサ & キリスト教地区

 

イエスの歩いた道であるヴィアドロローサはムスリム地区から始まります。

 

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ポイントごとに数字が書いてあるので、わかりやすくなっています。

途中、木の十字架が置いてあり、担いでみることもできました。

 

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聖墳墓教会はキリスト教地区の目玉。

中に入ると、真剣にお祈りをしている人たちがいて宗教的な雰囲気が漂っています。

 

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アルメニア人地区

もっともひっそりしていて観光客が少ないアルメニア人地区。

アルメニア料理が楽しめるレストランがあります。

 

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アルメニア虐殺博物館を目指してて歩いていたのですが、2018年2月の時点では閉館している様子でした。

 

城壁の外に出てオリーブ山へ

 

城壁の外に出て丘を登っていくとそこにはユダヤ教徒のお墓が。

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死んだあとオリーブ山のお墓に埋められるのは宗教的なユダヤ教徒にとって夢です。

 

聖地であるということに加え、メシアがやってきたらまず最初に蘇るのはここに埋葬されている人たちだからだそう。実際にその場に立つと、旧市街の岩のドームが見え開放感があり、ここに眠りたいという気持ちもわかります。

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ちなみにこのお墓に入るのには一千万以上必要とのこと…

 

旧市街は歴史の宝庫。

いくら歩いても飽きることがありません。

 

買い物やお茶をしながらじっくり散策してみましょう。

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イスラエル社会から見える「育てながら学ぶ・働く」。

ヘブライ大学に通っていると、ふと女性をとりまく大学の環境が日本と違うなと思う場面に立ち会います。

 

たとえば先週インターンシップを担当する先生とミーティングの約束があったのですが、当日約束の時間になっても来ません。15分くらい経ったところで、隣のオフィスの人から彼女は今日来られないと言われました。

 

しかたなくサンドイッチの残りを同じ階で食べていると、20分くらいしてその先生がベビーカーに赤ちゃんをのせて現れ、ミーティングがキャンセルになってごめんなさいと言ってきました。赤ん坊が理由で間に合わなかったとのこと。

 

その姿はまさに育児に追われているお母さん。しかしその先生は「西洋とイスラムのテロリズム」という授業を受け持っている女性でもあります。

 

ここでは赤ちゃんをオフィスに連れてきたりしながら仕事ができるのだなあと感心しました。

 

実際に大学内にはベビーカーを連れてうろうろしているお母さんがたくさんいます。

 

ひとつにはユダヤ人もパレスチナ人も子だくさんで、若くして子どもを産む事実が背景にあります。20才前後で子どもを産み始める彼女たちにとって、子どもを持つことは学業をあきらめる理由になりません。大学側も彼女たちが学びに来ることを前提にしています。

 

ヘブライ語の授業で同じクラスだった34歳のパレスチナ人女性は子どもが4人いるため、朝は5時に起きるといっていました。子どもの世話をして、本人は週三回ヘブライ語を学びに来ています。

 

また5才の娘さんがいる知人に聞いたところ、彼と彼の奥さんは共にヘブライ大学の学生で、なんと子どもが親と一緒に教室に入ることが許されているそうです。親が授業を受けている間、子どもはしずかに本を読んだり、絵を描いたり、あきたら教室の外に出ていっていいそうです。

 

他にも同じ年くらいの子どもを持っている親がけっこういるので、親が授業を受けている間、子どもたち同士で遊んだりしているとのこと。

 

10人一気に産休に

 

先日、日本語を学んでいるパレスチナ人の友人に「残念だけど、日本で女性として生きていくのは難しいよね」としみじみ言われました。日本では女性に対する社会的な扱いが悪い、という意味です。

 

彼はイスラエルの大きな病院で腎臓移植チームに所属する看護師として働いていますが、驚くべきことにチーム内の女性の同僚が10人一気に産休に入ったそうです(さすがに本人も驚いていました)。そのため彼が忙しくなっているとのこと。もちろん彼女たちは、産休後もちゃんと復帰できます。

 

そんなことを見たり聞いたりしていて、日本にも解決しなければいけないことはたくさんあるなあ、と紛争の絶えないエルサレムから思うのでした。

 

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