ホロコースト記念日にイスラエルが込める意味
2018年4月12日は国が定めたホロコースト記念日でした。
イスラエルでは『ヨムハショア』(ヨム=日、ハショア=ホロコースト)と呼ばれます。
学校や仕事は普段通りにありますが、午前10時にすべてがストップ。
どこにいようとイスラエル中が黙祷します。
大学では10時前に授業をいったん中断し、近くの講堂に集まりました。
セレモニーが行われた講堂
みんなが集まるとサイレンが聞こえ、数分沈黙が続きます。
それが終わると祖父母にホロコースト体験者を持つ生徒が話しをしたり、留学生が各国の言語でそれぞれのホロコーストの話をしました。
ヘブライ語、英語、ドイツ語、フランス語、ポーランド語などで話が続いたあと、
悲しい旋律の音楽がピアノやバイオリンで奏でられます。
最後にはイスラエル国家のハティクバ(『希望』という意味)をみんなで歌っておわり。
解散後はまた各自授業に戻っていくという風でした。
キャンパス内のホロコーストの展示
ホロコーストとは
ホロコーストとは第二次世界大戦で約600万人のユダヤ人犠牲者を出した虐殺のことを言います。
ヒトラー率いるナチスドイツは戦争中ユダヤ人を計画的に殺そうとし、強制収容所、ゲットー、ガス室を作って大量の犠牲者を出しました。
現代でも西洋社会におけるそのインパクトは絶大で、毎年必ずといっていいほどホロコーストに関する映画が発表されています。
もちろん、ユダヤ人に与えたインパクトは計り知れません。
長い間国を持たなかったユダヤ人にとって、安全な自分たちの国を持つこと(つまりイスラエルの建国)がホロコーストによって一気に現実的になったのです。
歓迎されなかったホロコースト生存者
しかしイスラエルでは建国直後、ホロコーストを生き延びたユダヤ人は偏見の目で見られます。
それはホロコーストがユダヤ人が国を持たず、各国に散り散りに生きてきて、いつも受け身の存在でいた弱さの象徴として捉えられていたためです。
その代表的なイメージが年をとっていて髭をのばし、本の読みすぎで身体が曲がっているユダヤ人。このステレオタイプなユダヤ人像をイスラエルのユダヤ人たちも内在化していたのです。
それに対し、イスラエルの建国の柱になった人たちは健康的で日に焼けていて農作業をしているマッチョな強い男というイメージを大事にしました。
ただえさえ大変な経験を生き延びた人たちは初期のイスラエルで肩身の狭い思いをし、自らホロコーストの体験を語ることも避けられたのです。
流れを変える二つの要因
しかしその後ホロコーストはイスラエルにとってもっとも大事な歴史的出来事になります。
理由のひとつは、1961年にはじまったエルサレムのアイヒマン裁判。
『凡庸な悪』と評されたアイヒマンというナチスの幹部にいた男がエルサレムで裁判をします。(のちに絞首刑)。
この世界が注目する裁判によりホロコーストで実際何があったのかがが明るみに出始め、イスラエルでも理解が広まりました。
さらに建国後から周辺国のアラブ諸国と戦争を始めたイスラエルにとって、ホロコーストという出来事がイスラエルという国を正当化する最強の武器だということもトップの人間にわかってきたためです。
ホロコースト記念日は「イスラエル流」
ホロコースト記念日はワルシャワゲットー蜂起の日に重ねています。
戦争中にゲットーに閉じ込められたユダヤ人レジスタンスたちがナチスドイツに対して起こした武装蜂起です。
この日に記念日を重ねたわけは「ユダヤ人でも抵抗した人たちがいた」という「離散した弱いユダヤ人」のイメージに対するアンチテーゼの意味が込められています。
そしてホロコースト記念日の一週間後にイスラエルの独立記念日がやってきます。それはホロコーストがあったからイスラエルがあるという流れを時系列でもって感じさせるようになっています。
ホロコーストはユダヤ人だけに起こったことではありません。共産主義者、障害者、同性愛者、ジプシーやエホバの証人の信者たちも殺されていきました。
その事実もよく踏まえた上で、イスラエルという国がホロコーストを通してどういう風に自分の国を位置づけているのかよくわかる記念日だと言っていいでしょう。
図書館に展示されるホロコースト関連の本